この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

望月
いい感じの雲だったのだけども、あっという間に月が雲の下に沈んでしまったので三脚を用意する暇がなかった。
EOS-M100手持ちにて。
ISO6400まで上げているのでさすがにノイジー。

望月
結局ただの満月の写真に(トリミングあり)。

 

11月23日未明の月。
今宵の月は、平安時代に藤原道長が京の邸宅で「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んでから千年目に当たるという。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」は、藤原道長が自分が今の地位にあるのは日頃自分に仕えてくれる官職の人たちの働きによるもので、日頃の感謝を欠ける事のない月に例えたとされている。
それがそのまま勤労感謝の日として祝日になろうとは、藤原道長も考えはしなかっただろう。

 

はい、うそです。
「「望月の歌」は藤原実資の日記「小右記」の1018(寛仁2)年10月16日の条に記されている。3人の娘がみな后(きさき)になることが決まった日で、権勢を満月にたとえた歌とされる。新暦で言えば11月に当たり、今月の満月は23日に日付が変わる頃に迎えるという。」
京都新聞のサイトから引用。

「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味であり、なんとも傲慢極まりない歌である。
ウィキペディアより引用。

 

勤労感謝とは対極のような歌であり、それを読んだ日が後の勤労感謝の日になるのは皮肉という他ない。
ちなみに勤労感謝の日は、「「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている」とある。
ウィキペディアより引用。

 

テクノロジーが進化し変化の速度が加速していく昨今、果たして1000年後はどうなっているのだろうか。
藤原道長は、自分の詠んだ歌が1000年後にも語り継がれていると想像しただろうか。
調子に乗って詠んだは良いけども、自身にとっては意外に黒歴史なのかもしれない。
まあ、このブログは1000年も残っていないだろうから、好き勝手書いても無問題ということで。

 

余談だけども、このページのURLは「https://takanobu.me/mochizuki/」とした。
望月の表記ってmochizukiだっけ、mochidukiだっけ?と調べた。

へえ、ローマ字って「ズ」と「ヅ」って区別しなんだね。
もちろん通い昔に習ったことではあるのだけども、覚えていなかった。
ちなみに入力は「motiduki」としている。
だからどんどん認識がズレ行くわけでwww

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