先日、茂原市で不発弾がみつかったよー(こんなに嬉しそうじゃないけども)というニュースがあった。
そういうわけではないけども、茂原に出るついでに茂原公園じゃあ芸がないので何かおもしろいものはないかなと探したら、掩体壕(えんたいごう)なるものがあるという。
というわけで撮りに行ってみた。
ちなみに、不発弾の処理は1月26日に行うという。
http://www.city.mobara.chiba.jp/0000003601.html
掩体壕とは、いわゆる防空壕のように山等に穴を掘って人が避難するものではなく、コンクリート製のかまぼこ型で航空機を防護するものという。
茂原には戦時中海軍の飛行場があり、私が訪れたもの以外にもいくつか掩体壕が存在しているようだ。
三井化学さんや元茂原樟陽高校(前の茂原工業高校及び茂原農業高校)周辺の直線の道路は、昔の滑走路の名残だと聞かされた(厳密には滑走路だったり、掩体壕への誘導路だったりするようだ)。
てか、こんな場所にこんなものがあったんだな。
掩体壕の前の道はなかったと記憶しているが、この辺りは高校時代にマラソンさせられたwww
あの時は嫌でしょうがなかったが、今となってはいい思い出か。
以下は看板の写し。
「昭和十六年(一九四一)太平洋戦争が始まる直前の九月に、木崎、谷本、町保、新小轡、本小轡内の約一五〇戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(戦略上は海軍五二航空隊)の建設が始まった。
基地本部跡はいま荻原小学校、兵舎跡は茂原中学校であり、三井東圧化学㈱東側の約一〇〇〇m道路は当時の滑走路跡で、基地の東端はいま東郷保育所の前の通称海軍道路と呼ばれている当たりである。
この掩体壕は航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて壕に納め、敵機からの攻撃に備えた壕である。
二〇数基建造された中では最大の規模で、総面積三六五㎡、壕の中の面積286㎡、高さは最大が六m七〇cmである。
戦時中で基地造成の人手が不足していたため当時の長生中学校や茂原農学校の生徒、周辺の人達等を動員して急いで造った。
築造方法は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵(むしろ)や板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流した。その厚さは三〇~五〇cmと均等ではないようである。また計算通りのセメントが間に合わず後から付け足したものも観察できる。
五〇余年経た今日、茂原海軍航空基地を語る数少ない遺跡である。
平成七年八月一五日 茂原市教育委員会」
今や廃墟と化している以前の茂原工業高校横の一直線の道路。
天気予報は晴れだったのになんか雪が降ってきたよwwww
戦争遺構なんていいものじゃないけども、忘れない為には残しておかなきゃいけないものなのだろうな・・・。
さすがに不発弾は見に行かなかったけどもwww