小山田圭吾氏の辞任は現代のかちかち山か?悪因悪果、天網恢恢、これが地獄で最も大切なことです。

 

7月23日、ついに問題続きのオリンピックの開会式が開かれた。
私は出掛けていたので見てはおらず興味もなかったのだけども、入場にゲーム音楽が使われていたとのことでちょっと見てみたいと思った。
演出担当者の思惑通りというか何というか、私ってチョロいなあとwww

 

開会式直前になって、音楽担当の小山田圭吾氏が過去に行っていたイジメ問題で辞任した。

 

辞任して当然という意見、過去の事を掘り起こして問題にするのはやり過ぎという意見、どちらもまあそうだよなと思う反面、じゃあどうすりゃ良いの?と釈然としない。
恐らく100%の正しい答えは存在しない。
個別の案件で個別に対処し、個々人が考えて答えを出す、もしくは出さない問題なのだと思う。
そういうわけなので、私も考えてみることにした。

 

●かちかち山

畑を荒らす狸を捕まえたおじいさんは、狸汁にしなさいといって出掛ける。
狸はおばあさんを騙して逃げ出し、おばあさんを殺し、汁物にしておじいさんに食べさせてしまう。
これを知った昔おじいさんに世話になった兎どん。
狸の背負った薪に火をつけて大やけどを負わせ、そこに薬と称して辛子味噌を塗り込みさらなる苦痛を与え、挙げ句泥舟に乗せて溺死させるというお話(いくつかバリエーションはあるようです)。

 

地獄を舞台に獄卒達の活躍?を描く「鬼灯の冷徹」という漫画があり、そこにこの兎どんが出てくる。
罪人に責め苦を与える獄卒達の教育として初登場の時にこのかちかち山が引き合いに出される。


 

おばあさんを殺した上に汁物にしておじいさんに食わせた。
そんなもの示談で済みますか?と。
一方現代版カチカチ山では狸の行った残酷な部分が割愛されているものが多いが、それだと兎どんの報復の仕方が酷くなりすぎて本末転倒であると。
悪因悪果、天網恢恢疎、これが地獄で最も大切なことです。

 

悪因悪果=悪い行為をすれば、それが原因となって、必ず悪い結果が生ずること。

 

天網恢恢=天網恢恢疎にして漏らさず。天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。

 

カチカチ山が生まれたのは室町時代とされており、今のように裁判制度が整備されていなかったり、そもそもお話なのでそこは考慮するにしても、ここまでの報復はさすがにNGである。
だからこその現代版改変ではあるのだけども、兎どんの報復が酷すぎたり、ましてや心を入れ替えた狸が心を入れ替えて示談成立なんてまずあり得ないだろう。

 

大多数の意見として(いわゆるネットの意見)、お前は報いを受けていない、であったからこその今回の辞任劇となったのだと思う。
しかし、報復も示談も、やって良いのは被害者本人か親しい人だけではないだろうか。

 

人間誰しも大なり小なり悪いことはやっているものである。
私もそうだ。
だからこそ、悪いことだとは思うけども、自分の行動を振り返ってみると大見得切って批難する気にもなれない。

 

あなたたちの中で
罪を犯したことのない者が
この女に、まず石を投げなさい
聖書の中に、姦通罪で捕らえられた女性をめぐって、主イエスと律法学者たちが対決する場面があります。旧約の律法では、姦通罪は石打ちの死刑にされることになっていました。判断を求められた主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言いました。すると年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、誰も女に石を投げることができませんでした。

 

上記は最もな話ではあるけども、被害者については何も書かれていない。
聖書にイチャモンを付けるのはアレだけども、私であれば罪を犯したことのない者と被害者とするだろうか(とりあえず罪状については考慮しないことにします)。

 

イジメは逃げ得であることが多いが、小山田氏はさすがに今回は報いを受けたのではないだろうか。
もちろんそれを判断できるのは被害者と親しい人だけだとは思うが。

 

これも天の網に引っかかったといえるのだろうか。
でも、本来は人の手で、逃げ得は許さない法整備が必要だろう。

 

イジメは恐らくなくならない。
だって大人がやっているのだから・・・。
でも、なくす努力はしなければならない。
それで嫌な思いをする人がいるのだから。
イジメをなくす努力と正当な裁きを。
地獄で責め苦を受けたって何もなりはしないのだから。

 

コーネリアスのHPにはこのような謝罪文が掲載されている。

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